【Fight&Lifeコラム】KAKUTOGI TSUSHIN/高島学

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ノスタルジック厳禁――、
40歳を迎える頃からか、
とにかく、昔の方が良かったと思いがちになる自分に対して、
原稿を書く上で、言い聞かせている言葉だ。


でも、今日はこの禁を破りたいと思う。


格闘技通信が先月、休刊という名の終焉を迎えた。
原稿を書いて、ギャラを手にする――、その一歩を踏み出したのは、
若林太郎さんと布施鋼治さんが共同の仕事場としていた
テルティウス・ファクトリーと、
千代田区三崎町のベースボールマガジン社、本館二階(だったと思う)の
格闘技通信編集部だった。


サラリーマン時代に名古屋に住んでいた時、
地方にベースを置いて、この仕事をされていた安田拡了さんが、
名古屋の格闘技を考える会という、非営利の団体を起こされ、
サンボをかじっていた自分は、
格闘技セミナーを定期的に行う、この会に参加させていただくようになった。


1993年、まさにUFCが始まる数カ月前の話だ。
その年の終わりに、会社を辞め、世界を放浪するに当たって、
安田さんは、若い間にしかできないことがある――と、
同世代の会社にいた人たちとは、全く違う目線で、この行動に太鼓判を押してくれた恩人だ。


その名古屋の格闘技を考える会が出していた不定期刊行物に、
放浪中に尋ねたジム便りを寄稿することになった。
自分が手掛けた数少ない手書きの原稿、今、手元にあればきっと赤面どころから、
熱を出してしまうような恥ずかしいモノカキ以前のカキモノがそこにあるはずだ。


旅の途中、94年の3月、アムステルダムで格闘技通信のオランダ通信員をされていた遠藤文康さんにお会いし、オランダ格闘技界と日本のかけ橋となったきっかけなど、話を聞かせてもらい、文字に起こし、拡了さんにエアメールで送った。


当時、貴金属の会社で仕事をされていた遠藤さんが、雨のなか、自分の姿が見えなくなるまで、ずっと見送ってくれたことは、今も忘れられない。


放浪なんて、文字にすると格好よく写るかもしれないが、ただの根なし草――。
誰かが自分のことをその目に映してくれることで、
自らの存在が確認できる。そんなことを傘をさす、遠藤さんの姿から学んだ。


放浪の最中、日本を否定し、日本人を小馬鹿にしながら、日本人でつるみ、
その街の風土に触れようとしない人々と、何度か酒を酌み交わした。
彼らは、誰の目に映らない場所で、生息しているだけ。
生きているとは、自分は思えなかった。
生きるとは、誰かの目に写ること。自分をさらけ出すことだ。


だから、自分を持っていたい。
自分は自分。
いわゆる日本人の感性とは違うものを持ち、日本人らしくないと言われることが多い。
ただし、日本を否定しないし、自分はどこまでいっても日本人――、
コスモポリタンでもなんでもなく、
日本人の感性をもって、世界と接触したいと今も思い続けている。


遠藤さんと出会った時に感じたことを今も思い、
旅先で出会った人は、姿が見えなくなるまで見送ること――を今も実行している。


雨のアムスで遠藤さんと別れ、夜行でオーストリアへ。
再び夜行でイタリアへ行き、長靴のカカトの部分からフェリーでギリシャへ。
トルコを経由し、東欧諸国ブルガリア、ルーマニア、ハンガリー、チェコを回り、
ドイツから北欧四カ国へ。
デンマークからの夜行で、再びオランダへ戻ったのは5月の初旬だった。
遠藤さんと再会するために訪れた
ボス・ジムで、当地を取材している若林さんに出会った。


若林さんの格闘技界に精通した知識、巧みな話術に
自分は見事にはまり、太郎さんもまた、レースと格闘技を追いか掛けて世界を回る
変なヤツに興味を持ってくれた。
若さんは、今も「タカシン」、あるいは「高島」――と呼び捨てにしてくれる
数少ない先輩だ。


10月の終わりに帰国し、しばらく東京に滞在したときに、
初めて高田馬場のテルティウス・ファクトリーを訪れた。
94年当時、ブラジルの柔術アカデミーを直接訪れた日本人は、メディアにも
殆どおらず、グレイシー関連のムック本がでるので、その座談会に参加させてもらった。


自分は神戸に戻り、再びサラリーマンになるつもりだったし、
その約束で、3年近く貯めた結婚資金を旅行にあてがっていた身だ。
「就職する前に何か書いてみるのはどうですか――。○○からグラップルっていう
格闘技雑誌をつくるっていう話もあるんです」と、今も時おり話し言葉がデスマス調になる若林さんの誘いに、応じるように東京へ向かうことを決めた。


放浪で色々経験したように、東京で少し住んでみて、格闘技について何か書いてみるのも
また、違う経験になるかな――と、あくまでも就職前の経験のつもりだった。


当時、パウンドという打撃攻撃に嫌悪感を持っていた自分に対し、
拡了さんは「UFCが嫌いなら、ゴン格の方が良いかもね」と進言してくれたが、
自分は極真空手もそれほど興味がなく、
海外の情報が多い、格通の方でやらせてもれれば――と、
拡了さんと若林さんの伝手を頼り、格闘技通信編集部を初めて訪れた。


当時、拡了さんに教えられた、「記者は車代をもらうと終わり」という言葉を胸に、
今も記者生活を送っている。


格闘技通信の編集部に初めて出向いた時、
足がすくむほど緊張していたし、編集部員の人たちの冷たい視線は今も忘れられない。
(自分でも、その後、すぐに気付くのだが、仕事に集中している状態で、見知らぬ人間が編集部にやってきて、紹介されても、興味を持つ余裕など、全く持てないのです)


そのなかで、三次敏之さんが発してくれた
「海外を回っていたんだってね、凄いね」という一言で、もの凄く救われた。
直後に行われた新年会も、若林さんや布施さんの
「新顔は、そういうところに顔を出して、名前を覚えてもらうんだ」というアドバイスに従い、なけなしの5000円を支払い、出席させてもらった。


居場所のない、もの凄く居心地が悪いなか、カラオケを一曲歌ったあと、
またも声をかけてくれたのが、三次さんだった。
「俺が歌おうと思っていた曲、先に歌われちゃったよ」という一言。
新入りに話しかけくれて、アマチュアの総合系の仕事を振ってくれたのも、三次さん。
その後、格通編集部では、何度もカラオケに出掛けた。
(01年に格通を離れた自分にとっての晩年期、加藤朝太くんにカラオケに行きましょうと言われ、彼のお気に入りの子がいるキャバクラに連れて行かれ、やたらと高いカラオケ代になったことも今となっては良い思い出だ)。
三次さんには、いつか、仇でなく恩返しをしないといけないと、今も思っている。


初めてカラーページを振ってくれたのは、松井孝夫さんだった。
キックの原稿。格通時代はキックの記事も結構書いていた、
伊藤隆×ムラッド・サリ、村浜武洋×ダニー・スティール、
全日本キックの顔となる以前の小林聡、今となっては非常に懐かしい。


松井さんも、三次さんも、自分の原稿を手直しするのに、四苦八苦で、
サラサラと原稿を書ける編集部の人たちや、フリーの先輩方はほんと神がかって見えた。


この仕事を始めて、1年9カ月、初めてインタビューの仕事をさせてもらった。
朝岡秀樹さんに、エンセン井上のインタビューを頼まれたのは、
彼が日本最弱という、雑誌の売り上げを無視したようなタイトルをつけたVTJ96増刊号から2カ月後のことだった。


1/2、1頁モノ、あるいは参加募集ページやトピックスページを書く日々で、
今も自分を支えてくれている経験を数多くさせてもらった。
ノルタルジック厳禁、今を否定するのは良くないことだが、
この一点だけは、今、編集の仕事や書きもの仕事に就こうとしている
若い子たちより、ずっとずっと恵まれていたと思う。


谷川さんに、直接赤を書きこまれ、写真の選び方を実例をもって指導していただいた。
非常階段の踊り場で、「高島君はさぁ、いつまでこの仕事をやるつもりなの?」と
言われた時は、これは、俺はクビを切られるんだと、本当に怖かった。


あの頃、谷川さんは外見のソフトさとは全く違う、シビアな面や怖い面を編集部内では
見せていたので、自分は、
今の業界の人が描く谷川さんのイメージとは全く違う人間像を持っている。
だから、会話するだけでも、緊張してしまう。


なんとなく――なんて、言っていられない真剣な人々に交ざって、
仕事をさせてもらううちに、
雑誌界にはタブーのようなものが存在し、事実をオブラートに包まないといけないことが数多く存在することを知るようになる。


そして、その現状と戦っている人、戦わない人、戦っているようで保身に走る人、
多くのタイプの諸先輩方を見るようになった。


んで、自分は業界に迷惑をかけない程度で、
格闘技が格闘技として、存在する力になりたいと思うようになっていった。


暴露本に格闘技界の裏側を書くくらいなら、業界を離れる。
だけど、八百長に目はつむりたくない。
安全面、道徳上一般社会に受けいれられない、格闘技と暴力の境目を
ハッキリさせる必要がある。


その第一歩は、業界に入ってまだ4カ月ほど、
バーリトゥードジャパン95の増刊号。
1ページの敗者復活戦の原稿の入稿に朝まで時間がかかった新人が、何げなく――というか、何も遠慮することなく書いた編集後記の顛末が、自分のなかの何かを動かした。


中井祐樹の準優勝を見て、「悪貨は良貨を駆逐する」をもじり、
「良貨は悪貨を駆逐する」と記したが、その一文が出来上がった本から削除されていた。


そして、安西伸一・副編集長が、
「君が食べていけなくなるだけでなく、
君が世話になっている若林君や布施に迷惑をかけるよ」と、言ってきた。


この時があるから、今の自分がある。
この時、この瞬間、
「編集部内で話している内容が、そのまま記事になる格闘技界にしていきたい」と、
ちょっとした火がついた。
その後も安西さんとは、色々あった(ここに書けないレベルのことが多い)。
安西さんだけじゃない、上に挙げた恩人といえる人たちに、
決して若くもないのに、若気の至り、
加えて、格闘技界が正しく成長するため――という持論をバックに、
随分と失礼なモノ言いをし、無礼な態度に取って来た。


反省すると同時に、当時のスタンスを曲げず、
実行するために、より利口にならなくては――と、今にして考えるようになった。
逃げてちゃできない。
諦めても、いけない。
雑誌なのか、インターネットなのか、
ファイティング・エンターテインメントなのか、格闘技なのか。
色々な人の見方があり、
色んな伝え方がある。


今、言えることは格闘技通信がなければ、自分もないということ。
そもそも、自分が海外を放浪してジムを回りたいと思ったきっかけは
布施さんがオランダ取材の最後に書かれていたコラム、
クリス・ドールマンとのやりとりを読んだからだ。
「コージ、飯は食ったか」という、締めにつながる言葉、
身ぶるいがした。
自分も、オランダを訪ねてみたいと思った。


全ては格闘技通信があったから。


時代は変わり、格通も変わった。
自分も変わった。
格闘技界はもっと変わった。
進化したのか、変化したのか、それは人によって違う感想を持つだろう。


それでも言えることは、格闘技通信という雑誌があり、
多くの人が恩恵を得ていたということ。

改めて、ありがとうございました――と、格通、
そして格闘技通信に関わった人々に、お礼を述べたい。


水曜日ぐらいに、赤っ恥をかくことができる高島学は
あの頃、格通に関わったひとたち、そして
格闘技通信があったから、今があります。

 

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