【Fight&Lifeコラム】Jan. 17th 1995/高島学

FL16COVER.jpg     wscover.jpg   

最新号をAmazonでご購入!!            Amazonでご購入              

バックナンバーはこちら!   

 

 

この仕事を始めて、早いもので16年目に入った。
これまでの15年、2007年と2008年の2年を除き、
1月23日に発売される雑誌に関わってきたので、
15日から19日は修羅場になるのが、だいたいのお決まりパターンだった。
仕事を始めて2年目や3年目は、それほど仕事量をこなしていたわけではないけど、
その分、仕事の質は悪く、スピードも遅かったので、
修羅場でなくても、精神的に余裕はなかった。
締め切りのない2年は、経済的に余裕がないことを意味しているので、
神戸に帰ることなど、考えられる状態ではなかった(苦笑)。


今年も17日前後は、仕事部屋から離れる時間が1日に4時間もあるのか――
という日々を過ごしていたので、もちろん、神戸には帰っていない。
実のところは、このコラムも17日より前に書きたがったが、
それもままならなかった――。


1967年に生まれ、
23歳まで過ごした神戸という街には、当たり前のように愛着がある。
意味もなく、神戸という街を誇りに思っている。
六甲山と大阪湾に挟まれた、坂だらけの街。
南北1kmに満たない場所に阪神電車、JR、阪急電車が東西に走る街。
川は例外なく北から南に流れる街のことが、今も大好きだ。


でも、胸を張って、自分が神戸の人間やとは言われへん。
15年前から言えなくなった。
神戸で生まれ育ち、あの街が大好きなのに、阪神大震災を経験していない。
1995年1月17日午前5時46分、自分は神戸にいなかったのである。


人はよく『死ぬかと思った』という言葉を使う。
震災を経験した両親、従兄、旧友たちはみな、その時を振り返る時、
『死ぬんやと思った』と言う。


死ぬかと――と、死ぬんや――の間は、何百光年もの隔たりがある。


東京に引っ越した正確な日付は覚えていない。
確か地震の1週間か10日ほど前だったと思う。
94年2月から10月まで、世界を放浪したあと、
東京、名古屋と短期滞在し、12月に一旦、神戸に戻った。
その後、どうなるか分からないし、自信もなかったが、今の仕事につこうと、上京した。
当時、サンノゼに家族で住んでいた兄の小金井の家を仮住まいにして、
高田馬場にあった若林太郎さんと布施鋼治さんの仕事場、
テルティウス・ファクトリーに居候させてもらっていた。


あの日、午前7時過ぎ、いやもう8時を回っていたかもしない、サンノゼの兄から、
「神戸が地震や。家に電話したけど、こっちの声が聞こえてないみたいや。
けど、おかんが出て、ずっと『もしもし。もしもし』って言うとうから、あの人は無事やと思う。もう電話もつながらへんし、状況が全く分からへん」と、国際電話が入った。


半分、眠っている状態だった自分は
「しょうもない嘘つくな。神戸に地震なんがくるわけないやろう!」と、
兄の言葉を本気で受け止めることができなかった。
「アホォ、冗談とちゃうから、テレビつけてみぃ」と、必死になる兄。


そう神戸に地震なんてくるわけない――、自分たちは生まれてこのかた、あの日の朝まで、
『東京は地震が多いけど、関西は地震がないから』と信じて、生きていた。
地震後、たくさんの学者さんが
『関西に大きな地震が起こらないなどということはありえないのです』
などとコメントをしていたが、震災前にそう言ってくれた学者さんを、一人も知らない。


テレビをつけると、阪神高速が倒れていた。
実家から歩いて5分も掛らない場所にある高速が、橋脚ごと北側に倒れていた。
そして、死者2名というテロップが流れた。
『そんなわけないやろ! 高速が倒れとんねんぞ』
一人しかいない部屋で、TVに向かって大声で叫んでしまった。


すぐに実家に電話をかけたが、電話線は既に不通。名古屋に住んでいた後の家内も、
実家に電話を掛けてくれたようで、『通じない』と蚊の鳴くような声で連絡してきた。


『母親は無事』、兄の言葉を信じるしかなかったが、高速が倒れているのだから、
何がどうなっているのか想像もできなかった。ホンマに無事なんか? 
実家の両親、姉だけでない、神戸には高校生活まで、自分の生活のほとんどを占めていた
友人たちの多くが住んでいる。


東京に出てきていた友人と連絡をとったが、どこも状況は同じ、
誰も神戸とは連絡がとれていなかった。一人でいるのが怖くなり、事務所へ行った。
少しでも情報収集をと思っていたが、結局のところTVを眺めるしかできなかった。
そのTV画面では、埋立地にあった母校のグラウンドが液状化で沈みかけていた……。
時間が経つだけ、生まれ育った街がとんでもないことになっていることが理解できた。


携帯の方がつながりやすい。公衆電話で10円玉ならつながる。
東京以外からのほうが――。色んな情報が飛び交ったが、電話は不通のままだった。


その日の夜、ニュースが発表する死者の数は、1300人ぐらいに膨れ上がっていた。
翌日は確か、2500名ぐらい。この間、自分が何をしていたのか、あまり覚えてない。
ただ、『東京でなくて良かった』という台詞を何度か耳にしたことを、今も覚えている。


とにかくテレビを見続けていた。高校3年のときの同級生が、潰れた家から救出され、
TVのインタビューを受けている様子が流れた。
夜半から伝えられる、死亡者の名前。亡くなった方には本当に申し訳ない話だが、
友人や親類の名前がそこになければ、ホッとしている自分がいた。


しかし、ついに小学校から中学の同級生だった女性の名前をそこに発見してしまった。
友人のことが好きだった彼女から、そのことを伝えてほしいと言われたことがある。
他の友人のお姉さんの名前が見つかった。
あれだけの被害に合いながら、近しい距離にあった友人で命を落とす者はいなかったが、
知人や友人の家族――に、その範囲を広げると、
亡くなった方の情報は、いくらでもこの耳に届いた。


実家の母は石油ストーブに灯油を入れている最中に、その瞬間を迎えた。
「火をつける前で良かった。つけていたら、どうなってたか」。
地震から3日ほど経ち、枚方の親類の家に辿りついた母と、ようやく話すことができた。


実家は市営住宅だ。実家の北にあった木造アパートは1階が全部、潰れた。
西隣にあったコーポも、同様に1階がなくなっていた。
東隣のマンションは、非常階段がビル本体から外れ、ビルも斜めに傾いていた。


電気、ガス、水道、所謂ライフラインの全てが、ストップしたままだった。
既に60歳を越えていた父は、倒壊した住宅から、亡骸を、幾人も運び出したそうだ。
その父は近所の人が困っているのに、自分だけ避難できへん――と
持てるだけの食材と水を抱え、東灘に戻ると言いだした。


同じ親の血が流れると思えないぐらい成績優秀で、冷静な兄が、このときだけは動揺して、説得しようとしたが、父は一度言いだしたことを引っ込める人間ではなかった。
母と姉と一緒に平穏無事な大阪から、電車で西宮まで行き、
残りの数キロを歩いて東灘の実家に戻った。


途中、TVの取材クルーにマイクとカメラを向けられた姉は、
「ここを歩いている人たちが、今、何をしているのか、分からないのですか!」と、
激昂したという。すると、そのTVクルーたちは、頭を深々と下げ、
撮影を中止、全てのクルーが物資を担ぎ、台車を押して、一緒に食糧を運んでくれた。
市営住宅に着いた姉が、お礼と詫びの言葉を伝えようとしたが、
もう彼らの姿はそこになかったそうだ。


地震当日、東京で神戸の惨状を最初に知る唯一の手だて、
それがヘリコプターからの空撮だった。
倒壊した高速、燃え盛る長田の街、黒煙があがる兵庫――。


地上では、頭上を飛び続けるヘリコプターが発する地響きのような飛行音が聞こえると、『また余震が来たか』と肝を冷やし、生きた心地がしなかった被災者たちがいた。
彼らは、苦々しい気持ちでヘリを眺めていたという。


余震――。
こんな惨状で、別に仕事があるわけでもないフリーライターの1年生、
まだ一回しか寄稿したことがない実質プー太郎の自分は、
神戸に戻って、何かしなければ――と、当然のような使命感に駆られていた。
しかし、父から「食い扶持が一人増えてどうする」と言われ、東京に留まっていた。


震度4や、5に近いような余震が続いた神戸。
いつ住宅が倒壊するかも分からない日々――。そんな実情を伝えると、
いてもたっても居られなくなったバカ息子が絶対に戻ってくると思った父は、
その身の危険を回避するために、この台詞を吐いていたと後日、母から聞かされた。


阪神電鉄が、深江駅まで通じるようになり、初めて神戸に戻った。
全く何事もなかったような梅田の街、尼崎の辺りから、
屋根が潰れブルーシートをかぶせた家がちらほら見えるようになった。
武庫川を越え、兵庫県に入ると、その数が目に見えて増える。
西宮、芦屋、目の前の広がる光景が、現実とは思えなかった。
気がついたら、涙が自然と溢れ出て、電車のなかにも関わらず、頬を伝い落ちていた。
『俺の街が……』。


深江駅で電車を下りると、
そこはまるで東宝怪獣映画の原寸大のジオラマを見るようだった。
普通に自衛隊のジープが街中を走り回っている。
一階の潰れた家、通い慣れた――友人の家が経営する店が複数入っている
商店街の入り口が、ぺっしゃんこになっていた……。
道路に倒れたビルがそのまま横たわり、最短距離を家まで戻れない。
テレビの画面でも、雑誌や新聞に掲載された写真ではない
視界の全てに入ってくる光景が、破壊しつくされた街になっていた。


実家に電気は通っていたが、水道+ガスはまだだったと記憶している。
自衛隊がタンク車で、水を配りに来てくれた。


驚いたのは、近所の人や親類の明るさだった。『学、よう帰ってきな。メチャクチャやろう』、
『せっかく生きとうんやから、神戸市も紅白饅頭ぐらい配ってよ、なぁ?』


落ち込んでいたら、何も始まらない。
悲しい思いしか残らないようだと、人間は生きていけない。
彼らの明るさの根底には、生き延びた者が、落ち込んでいたら、
志半ばで命を散らした人たちに申し訳が立てへん――
という気持ちがあるように思えてならなかった。


2日だけの神戸滞在中、自転車を西へ走らせた。
高校時代のバスケットボール部の友人宅を訪れ、無事を確認したかった。


一軒目の友人宅は、壁が崩れ、家が半壊状態だった。
バスケ部の練習が、土曜の後半にふり当てられた時、
3時間ほど時間を潰すために、
この友人宅で、部活の全員が集まり、貴重だったエロビデオを声を潜めて見ていた。


二軒目に回った友人は、ここでポイントが欲しいというとき、
自然とその姿を追い、パスを回した相手。
ナンバー5をつけた男前のエースの家はガランとし、人の気配はなかった。


三軒目の友人宅――、コンドームをつける練習をして、
その後、処理に困った友人が、窓から捨ててゴムが庭の木にひっかかり、
それを叔母さんが発見し、ひどく怒られた――そんな話をして笑っていた2階に、
東隣の家が倒れ掛っていた。避難場所へ移動していたのか、友人には会えなかった。


これから三宮の方まで足を運ぼうかと思った時、警官に呼び止められた。
火事場泥棒ならぬ、地震泥棒と勘違いされた。
「友人が心配で、見て回っているんです」。どれだけ必死に説明しても、
今はモノ取りが多いから、暗くなる前に家に戻ってください――と注意された。


悔しくて、涙が出た。
実際の話として、崩れた家から現金が全てなくなっていた母の知人がいた。
ほとんど、ニュースとして伝わらなかったが、
復興に向けて、神戸が本格的に動き出した頃、夜になると真っ暗になる街では、
婦女暴行事件が多発した――と後に、友人から聞かされた。
自分が通っていた小学校は自衛隊の救援部隊の前線に基地に姿を変え、
父と母が挙式を挙げた公会堂は、避難場所になっていた。


神戸の役に立ちたい――、そんな気持ちを何年も持ち続けていたが、何もできなかった。


東京に戻った自分の身の回りでは、急激に震災で受けた衝撃は沈静化し、
すぐに風化していった。
みんな、自分の生活がある――だからしょうがない。
だからこそ、自分は神戸にこだわり続ける――なんて思ったけど、
気がつけば、己の生活を顧みるだけで必死の人生を送ってしまった。


貧乏ひまなし。自分自身が里帰りできなくても、家内が3人の娘を連れて、
年に2回は神戸に実家を訪ねてくれる。取材の合間に、実家に寄ることもある。


両親は今も健在だ。
随分と、年をとった。
「震災前」、「震災後」という言葉が、昔話をするときに必ず出てくる。


地震の直後は、手を取り合っていた人々が、復興のさなか、
現在の建築基準法に合致しない土地を持つこととなり、助け合っていた時間が嘘のように
自らの権利を主張し、裁判所で争うようになったことも少なくなかったという。


新しいマンションと、いつまでも残る空き地。神戸は、自分の知る神戸ではなくなった。
しかし、10年に一度会うか会わないかという友人たち、後輩たち――、
掛け替えのない連中が、今も住んでいる街だ。


もう、神戸に住むことはないだろう。
だからこそ――なのか、
阪神大震災のときに神戸にいなかった自分は
あの地震を機会に強く思うようになったことがある。


『あんたが1週間前まで寝ていた部屋が、本棚とかベッドに倒れて、一番酷いことになっとってん。死んだかどうか分からへんけど、あんただけは無事やなかったと思う』と、
母に言われた。


人はいつ、命を落とすか分からない。
1995年1月17日、自分は神戸にいなかった。


その約1年前、1993年の12月、勤めていた会社を辞めた。
ごく普通のサラリーマンで、給与形態に文句もなかった。
普通に愚痴をいい、休みの日は遊びにでる。そんな日々をおくるなかでも、
サラリーマンという社会人に馴染めない自分がいた。
務めていた会社の景気がよくなるのは、台風など、製品が被害が出る天災があっとき。
震災前だったが、人の不幸を願う、今が商売のしどきという雰囲気に染まれなかった。
社会人として、自分は甘ちゃんなんだと思う。


もともと真っ当でない人間だったから、サラリーマンになったことで
周囲から「本当に立派になって」と、誉められていた。
両親も安心していた。だから――というわけでもないが、
親しい同期が次々と会社を離れるなか、石の上にも3年という尊敬する叔父の言葉を胸に、会社に通い続けた。3年働くと、退職金が出る。
本当にチャイルドチックだが、退職金という施しを手にしたくないという気持ちと
『生まれたからには、一度しかない人生。世界を知りたい』という気持ちが合致し、
結局、会社を辞めた。


放浪を終えて、東京に出ることにした。
『~したかった』という後悔は、後悔じゃない。
『~しなければ良かった』というのが、後悔だと思っている。
だから海外へ行き、東京に来た。


1995年1月17日に、神戸にいて、命を失っていれば――何度も考えた。
サラリーマンを続けて、命を落とすのと、8カ月、世界を回ってから、死んでいたのでは、
自分の27年間の人生は全く違うものになった――、強くそう思うようになった。


神戸の復興に役立てるような人間にはなれそうになかったし、
(実際)なれなかった。だから、だからこそ、震災があったことで強く思うようになった、
何モノでなく、自分の意思に従う、自分に正直な人生を送ろうと、今も生きている。


格闘技雑誌を創る。
ページを創る。取材をする。
自分の意思に従い、自分に正直なページを創る。
編集者が同意してくれて、読者に目を通してもらえると、それでいい。


雑誌が自分を受け入れてくれないとなると、それで終わりだ。それも構わない。


雑誌を売ることは、商売だ。雑誌は商品だ。
だが、自分にとって雑誌は製品ではない。作品だと思っている。


面白いモノなんて、個人の価値観によって違う。
だから、自分に従う。自分が面白いと思うものを記事にしたい。
自分が知りたいことを、選手に尋ねたい。


専門誌だからこそ――、とはいっても専門誌も商業誌だ。百も承知している。
承知はしているが、商業誌だからといって、
志を捨てることを、人間の成長として捉えたくはない。


何かを諦めることを、正当化することは避けたい。


あの日、突然、命を奪われた人たち。
無念と思う暇もなかったかもしれない。死を理解し、覚悟を決め、
誰にも届かない声を挙げて無念のうちに亡くなった人もいるだろう。


避けることができない、大きな力で、志半ばで人生を終えた人たちがいる。
震災に遭わなかった神戸生まれの人間が、自分の意思で志を閉ざすことなど、許されない。


市場経済のルールに従うこと、服従することを正当化し、「商業誌だから」と言って、
雑誌創作でなく、雑誌製作にすり替えることなどできない。


人知れず、汗や涙を流すひとたちに、ぶら下がっていいわけがない。


雑誌はこれから大変だ――。
それだけじゃない、
今後ネットだろうが、記事を創って、人の目に届け、
対価を得るという仕事がますます困難になってくるはずだ。


記事を書く仕事の厳しさを、身をもって受け止める。
その厳しさに、この眼が曇りそうになる。
眼を瞑りそうになる。そんな自分だが、
1年に一度、1月17日に――、初心に帰ることができる。
大好きな神戸に、自分は生かされている。

 

【大好評!! ホエイプロテイン ミックスベリー】

090622hweymix.jpg
高たんぱく質・低脂肪の高品質ホエイプロテイン

【 2010年01月23日 13:29 】

トラックバック

この記事のトラックバックURL :

http://www.fnlweb.com/mtv33/mt-tb.cgi/4816

この記事へのトラックバック

コメント




ログイン情報を記憶しますか?

(スタイル用のHTMLタグが使えます)