【Fight&Lifeコラム】May 2nd/高島学



【最新号】Fight&Life vol.12


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5月2日は、特別の日だ。

それは、5月1日に起こった忘れられないできごとを知った日だから。





この日の午後、アイルトン・セナがイタリアのイモラ・サーキットで行われた

サンマリノGPのタンブレロ・コーナーで起こった事故で帰らぬ人となった。





以前にも、このコラムで触れたかもしれないが、

思春期から、強い、速い、異性(オンナ)――は、男を満たす三大欲求だと想い、

これまで年を重ねてきた。

少年時代を卒業した者は、新たな欲望を知ることになるかもしれないけど、

今も(というのは、御幣があるか――。家族持ちになり、異性への興味をあからさまにひけらかすわけにはいかない)、強さ、速さに対する憧れを持ち続けている。





1994年5月、若さ――という言葉で誤魔化しがきく時代も終焉に向かっていた自分は、

最後にその欲望を満たすための日常の真っただなかにあった。

この年の2月からガール・フレンドと二人で、

10月まで欧州、モロッコ、北米、南米、そしてタイと、

3年掛けて貯めた結婚資金が尽きるまで、世界を歩いた。





セナの死を知ったのは――、5月2日、スウェーデンの西南端の街マルメだった。

マルメ駅構内で、やたらとセナと彼がドライブしているはずのウィリアムズのマシン、

FW16の残骸が大きく掲載された新聞が並んでいた。

そのいくつかは、

セナと同じようにローランド・ラッツェンバーガーの写真も掲載されていた。





いったい、何があったんや――?

なんで、セナやラッツェンバーガーの写真が、デカデカと載っとぉんや?

原因は薄々分かっていた。でも、それはあってはならないこと、

そして、そんなことは起こるはずはないという想いが交錯するなか、

一人のビジネスマンに、「スウェーデン語が読めなくて、なんて書いているか分からない。何があったの?」と尋ねた。





「セナが死んだこと、知らないの?」という返答だった。





「じゃあ、ラッツェンバーガーは?」と尋ねた自分の言葉は、相当、弱々しかったと思う。

困惑したような表情を浮かべた彼は、

「あまり事情は分からないけど、その彼も亡くなったみたいだよ」と教えてくれた。





マルメからストックホルムへ向かう列車のなかでは、2度ほど嘔吐し、

吐き気が止まらなかった。





セナの死を日本語で確認をしたのは、その翌朝だった。

ストックホルムで飛び乗ったシリアラインで到着したヘルシンキから

実家にコレクトコールを掛けた。

セナが亡くなった記事を棒読みしてくれた父が、

この前日に65歳の誕生日を迎えていたのに、

何の祝いの言葉を掛けることもなく、

セナの死、ラッツェンバーガーが亡くなったことに関してだけ、情報を聞き、

電話を切った。





セナが事故を起こした時間、自分はベルリン郊外のアブスにいた。

アウトバーンの上下の直線をヘアピンと退出路で結び、いくつかシケインを設置した

あまりにも無骨で危険なサーキットで、ツーリングカー・レースを見ていた。





このサーキットは、この5年後に閉鎖されている。





強さと速さに憧れた、オンナ好きの26歳。

今も連れ添うカミさんと、大好きな格闘技とレースを見ながら、

その土地の名物料理を食べ、夕日や朝日を眺めるために世界を回る。

脱・社会人となってから半年が過ぎていた。





このベルリンのレースから、ウィークデイを北欧で過ごし、

またドイツに戻り、週末にはニュルブルクリンクでDTMを観戦、

その後オランダから、英国に渡りシルバーストーンで空前の盛り上がりを見せていた

ブリティッシュ・ツーリングカー選手権に足を運ぶ。

翌週はフランスへ渡り、ポーの市街地コースで国際F3000、

第5週はスペイン、バルセロナのカタルーニャ・サーキットでF1を観る。

これが1994年5月の予定だった。





レースの合間には、アムスのヨハン・ボス・ジムで、

若林太郎さんに初めて出会い、ウィリアム・ルスカの経営するカフェを訪ねた。

パリではペンチャック・シラットのジムで、

シャルル・ジョッソー師範に、稽古を見学させてもらった。





バルセロナでセナもラッツェンバーガーも出走しないF1を見て、5月が終わった。

6月――、モロッコでキックジムを探したが、見つけられず、

カナリーではカナリー相撲のトーナメントを観戦し、米国へ渡った。

CART時代のインディカー、NASCAR、IMSA、パイクスピークヒルクライムを見て回り、

AMCパンクレイション、グレイシー柔術アカデミー、マチャド柔術、マレンコ道場、ゴッチさん宅、

UFC3、USA修斗=イノサント・アカデミーを、3カ月の間に訪れた。





初めてUFCを見たあと、南米に渡り、アルゼンチンから

セナの死を引きずるようなサンパウロへ向かった。

当地では、今は亡きマルセーロ・ベーリンギの柔術クラスを見学することができ、

グレイシー・サンパウロやオタービオ・アウメイダのアカデミーを訪れた。

危険な空気がいっぱいだった、リオデジャネイロでは

リオ・スゥの最上階のスポーツクラブに設けられた無名アカデミーで、

エリオの愛弟子ジョアォ・アルベウト・バヘットの指導を見た。

ハイキックやアキレス腱固め、今でいうTKシザースからの足関節に驚かされた。





一旦、米国へ戻り、そこから台湾経由でタイへ行き、ラジャでムエタイ観戦。

貯えが潰えたので、オーストラリアやインドへは行かず、日本に戻った。





結局、レース観戦も格闘技ジム巡りも、可能な限り実行した9カ月となった。

そのまま、ある意味、社会のドロップアウト組に編入された。

この放浪を懐かしく思い出すことはあっても、後悔したことは一度もない。

あの9カ月間が、今の自分の基礎を創ったと思っている。





ただし、セナとラッツェンバーガーの死から、4日間ほどだけは――、

人が死ぬようなモノを追いかけて、

世界を回ることが正しいのか――、この旅を続けることが何になるのか――、

真剣に考え続けた。





ようやく両親も安心する、社会人としてレールの上を進んでいたけど、

せっかく生まれて来たのだから、

ここまま何も知らないで死にたくないと決意した上での放浪生活だった。

大袈裟にいうなら、人間はなぜ生まれ、必死に生きるのかを確認する作業でもあった。





とにかく、旅を全うしよう――。

人の命を奪う可能性のあるモノに、魅せられた自分の選択。

旅を続けた結果、今もその途中にあるような気がする。

あれから15年、自分の大好きだった格闘技は、ビジネスとして大いに成長を遂げた。

自分の大好きな自動車レースは、その後も何人もの死者を出している。





自動車レースでは、それらの尊い犠牲の下、

サーキットの改修や、レーシングカーの安全性の見直し、

スピードを抑えるレギュレーションの制定など、

毎年毎年、いや日々、命を守るための努力が続けられている。





危険は承知で速さを争うスポーツだ。

だからこそ、命を守るために人々が知恵を出し合っている。

それでも、毎年のようにドライバーは命を散らしている。





自動車レースは、格闘技よりもよほど金がかかる。

だから、世間とのしがらみも多い。

決して、クリーンなことだけじゃない。きっと格闘技以上にグロい世界だと思う。





世界的な経済危機が直撃し、エコロジー問題と常に向き合う昨今、

その人気は決して安定しているわけではない。

どこかグロい力で、難局を乗り切っている――、そんなことは一ファンにも伝わってくる。





そんな自動車レース界では、

人気向上のために、分かりやすさと親しみやすさを提供する場合が多い。





「レーシングドライバーは、暴走族ではないですよ」。

「レースってメカ的なことは分からなくても、コース上の競争で十分に堪能できますよ」。





パッシング・シーンを増やす努力はするが、

危険度を増すような行為が認められるわけではない。

競争相手が走ることができるスペース、ラインを残して走行し、無茶な幅寄せは厳禁。

車体を軽くするために、安全基準が低くなることもない。

命を守る、身の危険が間近な世界だからこそ、安全面を蔑には決していない。





本当の自動車レースの醍醐味を理解してもらうために、

前座のレースでは幅寄せOKなんです――なんてロジックは絶対に生まれないし、

関係者が口にすることもない。

そして、そんな考えられない発言が、メディアによって何の論争も呼ばず、

普通に活字になるなんてありえない。





命のやりとりが付随するなかで行われる、それは自動車レースも格闘技も同じだ。





DREAMからは元メジャーリーガーが出場する、

体重差のある試合、無差別トーナメントの開催が発表された。

レース的な表現を使えば、相手の走行ラインが残されていない――、

危険極まりない、パスをされる直前のライン変更といえるだろう。





しかも、その危険な行為によって、世間の注目を集められるのかも分からない。

よしんば、集められたとしても、何が格闘技界に残るのか?





格闘技が世間に受け入れられないなら、それは格闘技の特性だ。

無理やり受け入れられるために、格闘技の形を変えてどうなるのか。





以前、いやそれこそ20年以上も昔、

TBSのインディ500中継では、

車の走るスピードと、巨人の槇原投手の急速を比較していた。

「F1のモナコGPはセナが勝ちました。

インディ500は、生放送で中継されます」と、その数十分後にフジTVで録画中継がスタートするF1のネタバレをしていた。





あの頃以上、世の中はどうにかしてしまった。

今、TBSでドメスティックの自動車レースが中継されると、最後の1周は

視聴者に、歓喜の瞬間を見てもらうために、バイザーを開けて運転しましょう――

なんてことになってしまうんじゃないだろうか?





そして、そんなテレビ局の在り方と、暗に説明しつつ――実行するしかないという

雰囲気を醸し出すDREAM。

格闘技関係者は、危険な行為を、数字を得るために認めてしまっていいのだろうか?





数字を稼ぐために、格闘技を使って何をしてもいいのなら、

もうどっかのお姉ちゃんが、ミニスカートでパンツを見せたり、

胸を出したままで、グラップリングの試合をすればいい。





もちろん、それが格闘技だとは自分は思ってない。

ただし、体重差の大きなMMAを行うより、安全だ。

放送コードや放送倫理にひっかかるというなら、

体重差のある格闘技こそ、倫理にひっかかると思ってほしい。

下ネタのほうが、体重差のある格闘技より、ずっと品格がある。





格闘技で、分かっていてより危険な方へ踏み出すほど、下品で破廉恥な行為はないはず。





加えていうなら、胸丸出しのお姉ちゃんが

真剣勝負でグラップリングにこうじても、世間はそれを格闘技だとは受け止めない。





ただし、体重差のあるファイターが真剣勝負で総合ルールに挑むと、

それは世間的には格闘技として捉えられてしまう。





体重差を認めたファイトを売りにするなら、格闘技でもなんでもない。

ストライクフォースの赤野仁美や周囲の葛藤、

イベントを成立させようとしたプロモーターの思惑――。

弘中邦佳が出場するメインが、体重差を理由になくなったケージフォース。





両イベントとも、問題がありすぎるが、その部分で真剣に取り組むのと、

数字のために、苦渋の決断をした――というような感じで、実行するのでは

格闘技に対するリスペクトという部分で、雲泥の差がある。





こういう試合が強行される裏では、必ずのように最終的には、

「本人の意思を尊重する」という言葉が、出てくる。





米国MMAで、両手、両足に障害を持つカイル・メイナードという人物が、

アラバマのネイティブ・アメリカン居住区でMMAに出場し、論争の的になっている。

そこには、やはり本人の意思という部分で、多種多様の意見が聞かれる。





自分は、格闘技は可能な限り肉体的に差がない状態、

と同時に、技量に差がない状況で行うべきだと信じて疑わない。

それが退屈な試合になろうが――、ビッグ・ビジネスとして受け入れられなくても。





だから、どれだけカイル君が、MMAで戦いたい意志、そして事情を持っていたとしても、

周囲はストップをかけるべき。





それだけの障害を持つカイル君が、MMAで戦うという意志を持ち、

実行できたのであれば、彼は他の分野でも、そのパッションをぶつけ、

自らの想いを成就できると思っている。





だから、周囲はそのパッションを命のやりとりの場に持ち込まれないよう

働くべきだ。





ラッツェンバーガーの死を最も嘆いたドライバー仲間、

ともにJSPCでトヨタ車を駆り、笑顔でファンの対応をしていたジェフ・クロスノフは、96年にトロントの市街地レースで宙を舞い、ニレの木に直撃し、即死した。





大学時代には、マカオで夢を見せてくれた村松栄紀を失い、

就職後も小河等が亡くなった鈴鹿のレースをライブで観戦した。





この仕事を始めてからも、

ミケーレ・アルボレート、グレッグ・ムーア、スコット・ブレイトン、

デイル・アンハート、何度も歓声を上げさせてもらったドライバーの命を奪い続ける

レースに夢中になり、今も見続けている。





格闘技界は、今のところ、メジャーシーンで大きな事故に遭遇していない。

だから、視聴率のために批判を承知で、

あのようなトーナメントを開くことができるのだろう。

なぜ? 万が一、何かが起こったとき、TVは格闘技を切り捨てればいい。

きっと一般紙やスポーツ新聞の記者さんたちも同じだ。

格闘技以外を扱えばいいだけの話。

だが、格闘技メディア、何よりもファイターたちは、

人生を切り捨てられてしまっては、たまったもんじゃない。

本当にギリギリのところまで来ている。そんなハルク・トーナメントの発表だと思う。





1994年の5月4日、セナの死を説明してくれた父は、

2009年の5月4日の前日に80歳の誕生日を迎えていた。

3人の娘は、おじいちゃんに1日遅れのお祝のIP電話を掛けていた。





セナとラッツェンバーガーが亡くなって、15年が過ぎた――。





ずっと夢を見て、今も見ている僕は♪

お腹のでっぱり気にしている♪

昔に比べりゃあ、金も入るし、ちょっとは幸せそうに見えるのさ♪

いきがったり、びびったりして、ここまで来た♪

8時台、ゴールデンタイム、チャンネル合わせて♪

水のない川、エンジンのない車、弦の切れたギター、ヤニのないタバコ♪

こんなこといつまでも、長くは続かない。いい加減、明日のこと考えた方がいい♪

大人だろ、勇気を出せよ♪

だいじょうぶ、だいじょうぶ、きっと、うまくやれるさぁ♪

だからオイラにもう一度、カロリーィィ♪

君が僕を知ってるぅ♪





2009年、5月2日はまた一つ、特別に日になってしまった。

どう生きるのか。自分を見つめ直す1日に、なっていくのだと思う――。


【 2009年05月07日 17:14 】

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