【最新号】Fight&Life vol.11

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“コスプレファイター”長島☆自演乙☆雄一郎の強さの秘密は“日本拳法”だった(1) 記事の一部を大公開!!
今、発売中のファイト&ライフ誌上で
ATTを離れたベンケイ・トレーナーが日本にその活動拠点を移したい意向であることをレポートさせてもらった。
ハイパー・ダイエットとリカバリーで注目されたベンケイだが、
彼の人間として、その奥底にあるモノが、
少しでも読者の方に届き、皆さんの奥底に響くようなことがあれば――、
記者冥利につきます。
減量とか、テクニックとか、知らない世界の発掘とか、歴史の探訪とか、
格闘技雑誌は色々なことを伝えていかないといけない。
でも、その根底にあるのは人間。
その部分だけは、何年かに一度UFCを観戦し、
「つまらない」と断言してしまう――谷川さんと一致している、
格闘技の伝播の最も大切な部分だと思う。
ベンケイとシュハスコでもなく、BBQでもなく、
鉄板焼きを食した時のこと――。
「おぉ、センセイ・メグミが土曜の夜になると
作ってくれたテッパンヤキだ――」とベンケイは大袈裟に驚いて見せた。
その後、しばらくの間、言葉少なげになり、
ついには彼の頬を涙が一すじ流れ落ちた……、
そんな彼の横顔を見て見ぬ振りしながら、食事を続けた。
主君を守るために、立ち往生した武蔵坊弁慶。
アンドレ・ビニシウス・ベンケイは、そんな弁慶を彷彿させる義理堅さ、
不器用さを持つ。
いつを指して、昔というのかは知らないけど、
昔の日本人――のような感性の持ち主だ。
決して義理堅くない自分からしても、彼の人間性は心地いい。
実のところ、そんなベンケイの良さがすぐに理解できるほど、
自分は純粋でもなく、人がよくもない。
自分は今も昔も――、
やたら丁寧で、片言の日本語を使う外国人をもの凄く警戒する。
世界を放浪していた頃、英語ができないのに、
日本語で話しかけてくる親しげな連中が、最終的には
怪しげな奴らだったことが何度もあった。
英語を話す連中ですら、
向こうから寄ってきて笑顔を見せる場合は、警戒を怠ることはなかった。
もう7年、いや8年ぐらい前になるか、
初めてボタフォゴで会ったベンケイは、「オス」と頭を深々と下げてきた。
極真をやっていたという彼は、やたらと「フドウシン」だの「ゴリンノショ」などという言葉を使う――、自分にとって要注意レベ
ル5段階中最上位の人間だった。
メールで、マナブ・サマだとか、マナブ・ドノとか書いてきたベンケイ、
彼の教え子が日本のイベントに参加したとき、
彼らから、「ベンケイから」とプレゼントを手渡された時もあった。
いよいよ、自分は『一体、何を考えているんだろう? 俺を使って何をしたいんや?』と、
彼に対して、ますますネガティブな印象を持つようになっていった。
ベンケイは今、自分のことを知人に紹介するときに、
「ずっと古くからの友人で、もっとも信用できる記者なんだ」と言ってくれる。
この言葉を耳にするたびに、心のなかで『ゴメン』と謝っている自分がいる。
出会ってから2年間は、彼を警戒していた。警戒し続けていた。
彼の人間として、ごく真っ当な、正しすぎる意見を耳にするたびに、
『こんな真っ直ぐな人間がいるわけない。裏で何を考えているんや?』と
思わざるを得なかった。
それは、格闘技界にこんな真っ当な人間なんているわけがない――、
その正反対にある人間は、何人も見てきた嫌な過去から弾き出された――、
自分の判断だった。
彼が最も目をかけていた一番弟子が――、
とある組織、とあるブッキングマネージャーとの約束を反故にして、
新しいチームから、別のイベントに参加したとき、
ベンケイの怒りようは、尋常なものでなかった。
それ以来、その一番弟子とのトーレニングを取りやめてしまった。
この頃から、彼には裏表がないのか――、
本当にここまでピュアな人間なのかという風に、自分のなかで抱いていた
警戒心が、信頼という言葉に書き換えられていった。
ATTへ移り、家族と別れ、ボタフォゴのジムを手放した。
人生を賭けたATTを離れるのも、彼自身のスジを通し方、生き方の表れだ。
彼が日本で創ることになるであろう、チームが動きだす日が楽しみでならない。
そんなベンケイの過去を振り返ると――、
実は柔術だけでない、
ブラジル格闘技界の奥深さに触れることができる。
父親はポルトガル人、母親はドイツ人のベンケイ。
彼の祖先がブラジルに渡ってきたのは、祖父母の代だという。
父方の祖父はポルトガルで、ボクセ・ジ・フア、
あるいはボクセ・セイン・ヘグラと呼ばれるファイトで名を馳せていた。
つまり路上のボクシング、何でも有りのボクシング、
有名なストリートファイターだったわけだ。
寝技や蹴りはない。しかし、ラウンド制も階級もない
素手で行われるボクシングの王者、もちろん違法ファイトだ。
1930年代に、アシス・シャトゥーベランドと呼ばれるメディア王であり、
政治家であり、同時に裏社会の顔でもある人物から、
ベンケイの祖父は、リオデジャネイロに招かれた。
時の権力者たちの前で、違法の賭けファイトを数戦行い、
そのままリオデジャネイロに移り住む環境を与えられたという。
ベンケイの父は、プロレスラーだった。
格闘技王国ブラジルにも、実はプロレスブームというものがあり、
このルタ・アメリカーナと呼ばれた娯楽は、
1960年代の数年間、大いに人気を博していたという。
そんなプロレスブームが始まる以前に、彼の父は4年ほどプロレスラーとして活躍し、
その後は銀行で勤めるようになった。
1966年生まれのベンケイは、幼少のころ、一度だけ
大きなテントのなかで稽古をしている父の旧友たちに会ったことがあるという。
ベンケイの記憶の断片のなかに、
キャッチと呼ばれる、関節技の練習をする彼らの姿が残っている。
彼の父もまた、柔道を始めたばかりのベンケイに、
ちょっとした柔道にはない関節技をリビングルームで教えてくれたこともあったという。
ベンケイが柔道を始めたのは、4歳のころ。
この柔道が、また少し変わっていて、非常に興味深い。
彼の学んだ柔道は、今、五輪中継で目にする柔道とは、
かなり違いのあるもので、ベンケイは立ち技中心の柔道を目にした時に、
『これは何だ?』と思ったという。
彼が習ったグアナバラ柔道というスタイルは、決着は一本のみ――、
寝技に『待て』がないというモノだった。
こう書けば七帝柔道、高専柔道を連想しがちだが、
いわゆる亀の攻防はなく、
ガードポジションとトップから攻める――寝技が主だったそうだ。
それは――ブラジリアン柔術ではないか――という声が上がって当然だ。
しかし、彼が柔道を始めた当時、柔術にはほぼ立ち技がなく、
フィジカルを鍛える習慣もなかった。
今にしておもえば、
その寝技はトップから攻めるカーウソン・グレイシーのスタイルに似ていたと、
ベンケイは彼の学んだ『柔道』を振り返る。
グアナバラ柔道は、リオの一部、ごく限られた数の柔道アカデミーでのみ、
そのスタイルが継承されていたが、
今はもう、その指導者も五輪協会参加の柔道に、活動の場を移している。
投げあり、ポイントのない柔道ルールを用いて、
柔術のアカデミーとも交流があった。
ただし、バーリトゥードはまったく想定していなかった。
先生は竹刀を持って、礼儀作法にとても厳しかった。
『日本流だ』――というが、ベンケイは
あまり、今の日本、彼と同じ世代の自分たちが育った日本のことは知らない。
そんな彼から、柔術を名乗っていなくとも、
寝技中心の柔道が諸外国に残っていても不思議でない、
そんな柔道のもう一つの歴史が存在する可能性を教えられた。
今から10年以上前、カーロス・ニュートンの当時の師匠で
モニ・アイザックというイスラエル人師範がいた。
アイス、非常に冷たい目の持ち主で、人を平気で殺めることができそうな、
笑顔になっても、目は決して笑わない格闘家がいた。
その彼も、「今よりずっと寝技の多い柔道をオランダで習った」と言っていた。
そんなことを思い出させてくれた、グアナバラ柔道という響きだ。
とにかく、ベンケイはそういう日本人も知らない柔道を12年学び、
その後、中国武術を経て、極真に出会った。
日本人より、以前の日本人らしい性格が形成されて不思議でない。
以上、ベンケイのインタビューでは誌面の都合で割愛せざるを得なかったこと、
そして、ちょっと知ってほしいことを、
この場を借りて記させていただきました――。
こんな過去を持つベンケイのインタビュー、できれば書店で手にして、
(880円を支払って)――、一読していただけると幸いです。
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