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総合格闘技界に悲報が相次いだ。
9月8日(現地時間)、エヴァン・タナーがサンディエゴ近郊の山中で死亡しているのが発見された。
フロリダ滞在中にマルコ・ダ・マッタ・パフンピーニャから聞いた。
そして帰国後、14日(同)にロシアのウラル地方で飛行機が墜落し、
ウラジミール・パコージン氏が亡くなったという連絡を受けた。
タナーはパンクラスで一時期活躍し、その後UFCで世界ミドル級王者にも君臨した。
早すぎる晩年は、ちょっとした奇行で目立つ人になっていた。
パコージン氏はリングス・ロシア、そしてロシアン・トップチームを率いた人物。
パンクラス、リングス、そしてPRIDEと、自分の記者人生で巡り合うことのない二人――というわけでは、決してなかった。
もう10年以上昔の話になるが、テキサス州アマリロには
掌底+ロープエスケープ有りのシュートファイティング・プロモーション「USWF」が存在し、何度か取材に訪れたことがある。
ヒース・ヒーリングを破ってUSWF世界ヘビー級王座を獲得した試合など、
現地でMMAグローブをつける以前のタナーを見る機会に恵まれた。
USWFの常設会場は、屋内のロデオ場。
リングサイドで写真を撮っていると、テキサス・ブロンコがビール片手に
「50ドルも払っているのに、お前のせいで試合が見えねぇだろっ!!」と怒鳴ってくる。
常に細かい砂が舞う埃っぽいマットで、
タナーは最後の最後まで変わることがなかった、
拳から肘までが真っ直ぐに下がった固い構えを見せていた。
USWFのプロモーターでエースだったスティーブ・“スゥシィ”・ネルソンは、
大会翌日に出場選手やその家族を、アマリロ郊外の湖畔にBBQに誘うことを常としていた。(そこではサンボでヒクソンに勝ったことがあるオクラホマの柔道の先生に、長い長い江古田の思い出話を聞かされたりもした)
タナーは、ネルソンの姪で18歳の女の子と付き合っていたけど、
湖畔のデッキチェアーに並んだ二人の会話はあまり弾んでいなかった。
当時、今よりも(さらに)ずっと稚拙な英語を使っていた自分は
ガールフレンドが席を立った後、しょうがなく、タナーに何か話しかけたが、
彼からは一言、二言しか言葉は返ってこなかった。
自分の英語も拙いが、彼女と話しているときも、彼はそんな感じだった。
凄く内向的だなと、端正な顔立ちだけどチョット変わっているなと感じた。
その後、何度か言葉を交わすことがあったが、
UFCを主戦場とし、チーム・クエストに籍を置いた短い期間のたった一度しか、
多弁な彼と接することは、記者人生のなかでないままだった。
寡黙で、最後も、黙ったまま逝ってしまったタナー、合掌。
パコージンは凄く、もの凄く多弁だった。
彼と会話を交わしたのも、タナーと同様に海外で、それも3度だけ。
ただ、いつ話をしたのかまで、はっきりと覚えているのは、
それだけ存在感がある人物だったからだろう。
2003年4月と同年11月、翌04年の11月にリトアニアで話した。
03年4月、初めてリトアニアを訪れた。このとき――、
日本では決して頼まれることがないヒョードルのインタビューを、
リトアニアにいるということで依頼された。
そして、英語と日本語とロシア語が話せるロシア系リトアニア人女性を通訳に、
英語でインタビューを試みた。
何かあるたびにパコージンが答える。
ヒョードルがニコニコ笑って手短に返答し、通訳の女性にちょっかいを出している横で、
パコージンは頼みもしないのにインタビューに参加、話の腰を折りまくった。
とにかく「サンボ」、「ヒョードルが強いのはサンボをやっているから」と言い続ける。
ヒョードルに腕十字は柔道でも使っていたのかと尋ねると、
彼自身が頷いているのに、
パコージンが「サンボ。柔道じゃないサンボだ」と割り込んでくる。
「柔術がなんだ。柔道がなんだ。サンボこそ、最高の格闘技だ」と、
さすがサンボ連盟の要職にあり、
コンバット・サンボで日本とビジネスを築き上げただけあって、
サンボプッシュは凄い気迫で、言葉にも相当の力があった。
ところで――、
自分には今も記者人生の財産だと思っている組技の大会が3つある。
一つは2000年のブラジリアン柔術世界選手権、ムンヂアル。
もう一つは、2005年のアブダビコンバット。
最後の一つが1996年に東京で行われたサンボ世界選手権だ。
とにかく、サンボは凄い。パコージンが言うように凄かった。
世界大会の凄さは、記者失格だが、見た者しか分からないと思う。
目から鱗状態だった自分が、代々木体育館にいた。
アブダビやムンヂアルは回を重ねて取材を行うことができたが、
サンボの世界大会は今も、この12年も昔にたった一度目にしたきりだ。
だから、美化されてしまっているのではないかと思うほど、
素晴らしい、美しい投げや関節技が、映像のように鮮明に頭の中に残っている。
だから、正直、ウザいと感じつつも、
言葉少ないヒョードルよりも、よほどパコージンにインタビューがしたくなった。
そんなこと――、今の自分なら平気でやってしまうかもしれないけど、
5年前は、そこまで己に正直な記者じゃなかった。
いつかパコージンに存分にサンボの話をしてほしいという気持ちが芽生えたていた。
その年の11月、ブシドーMMA代表のドナタス・シマナイティスに
しこたまウォッカの一気飲みを強いられ、ホテルのドアを蹴り壊すほど悪酔いした自分は、当然、翌日は二日酔い状態で、パコージンの話を聞く状態になかった。
ばかりか、乾杯のたびにえらく長い挨拶をする――それがロシアの流儀と知っていながらも――彼が、またまたうざかった。
日本に来日した彼には取材できない状況にあった自分は、
その1年後、ようやくサンボのことを取材する機会に恵まれた。
所英男や弘中邦佳が試合をした大会に、パコージンもやってきていた。
このとき、初めて会話をしたGBRの中村君が酩酊状態になり、
ZSTの日置さんが、なぜかリトアニア軍の将校の上着を着て、
トイレから出てこなくなるのを眺めながら――自分は、
右手のグラスにウォッカをつがれるたびに、
左手に用意していたグラスの水を飲み干していた。
すべては翌日にパコージンの話をきくためだ。
しかし――、パコージンは約束の時間になっても現れない。
40分ほど遅れてやってきた彼は、「インタビューは昼からにしてほしい」と素っ気なく通訳の女性に伝え、どこかへ行ってしまった。
2度目の約束の時間にも遅れてやってきたパコージン。
「ビジネス・ミーティングが入った。今日の夜にロシアに戻るので、インタビューを受ける時間はない」と言われ、通訳の女性は自宅へ戻って行った。
手持ち無沙汰になってしまった自分は、一度は固辞していた「ビリニュス郊外にあるコテージ風のサウナに行かないか?」というドナタスの誘いに応じることにした。
これぞサウナというべき、白銀の中に立ち籠る湯気。
貸し出されている海パンを履き、その湯気のなかに足を踏み入れると――、
ビジネス・ミーティングに行っているはずのパコージンと目があってしまった。
さすがに所在無げな表情を浮かべる彼と、不機嫌さを露わにする自分。
微妙な空気を感じないドナタスに促され、ひと汗かいたあとは
コテージのダイニングで、一杯やりながら迎えの車を待った。
この間、英語もロシア語も話せるドナタスの奥さんを介して、
東京で行われたサンボ世界大会の思い出を存分に話した――、
「マメドフ・シェイホンは丸々と太ってしまったよ」
「ハイブライフ・グセインは達人のようでした」
「あの頃はまだ、全ソ王者が残っていた時代だね」
ただ、その相手はニコライ・ズーエフで、パコージンではなかった。
自分は意識的にパコージンと目を合わすことなく、ズーエフに向かって言葉を発し続けた。
30分ほど時間が過ぎ、サウナから空港へ直行するロシア勢の迎えがやってきた。
ズーエフと握手をし、
ダイニングを出ていくパコージンを目でおいながら自分の椅子に戻った。
と、コテージを出ようとするパコージンがロシア語で何か叫んだ。
足早にシマナイティス夫人がパコージンの下へ駆け寄り、
直後に「マナブゥー」――、自分を呼ぶ声がした。
コテージの玄関には、しっかりと自分の目を直視したパコージンが立っており、
ロシア語で何かを一気にまくしたて、両腕をきつく握られた。
シマナイティス夫人が彼の言葉を英語にしてくれた。
「済まない。ミーティングがあると嘘を言って。
実はこれまでに何度も日本のマスコミにはサンボのことを語ってきた。
RTTチームの取材にやってきた日本の記者が、サンボについて尋ねてきたので、
時間を惜しむことなく話したのに、雑誌にサンボが載ることは決してなかった。
君もRTTのことを尋ねたくて、
私にサンボの話を聞くと言っているのだと思い、話すのが嫌だったんだ。
ズーエフと夢中になって話している姿を見て、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
本当にサンボのことを尋ねてくれるつもりだったんだね。
残念ながら、私はこれからロシアへ戻らないといけない。
今度、またの機会には絶対に時間をとって、君のインタビューを受ける」
彼は自分以外のマスコミにも、ヒョードルのインタビューに割り込んで、
必死にサンボの話をし、疎んじられているのに気づいていたんだと思う。
図々しいけど、実直な人なんだと、思わす笑顔になる。
真冬を迎えるリトアニアの冷気を、とても温かく感じた。
自分とパコージンに今度、またの機会は訪れなかった。
永久に作れなくなってしまった――、合掌。
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