なんといえば良いのか――。
どのように表現すれば良いのか。
モノを書くことを生業にしているというのに、
阪急電鉄四条河原町駅から、地上へ出たときに、
体の内側から湧き上がってきた感情を、上手く書き記せない。
予想もしない、動揺にも似た感情。
異様に目をキョロキョロさせながら、取材の都合で烏丸通をそのまま北上した。
東へ向かいたい気持ちを抑えて――。
あの頃は四条通りを八坂神社方面、つまり東へ歩を進めていた。
自分とは反対方向、京阪電鉄四条駅から烏丸方面に向かう人並みを避けつつ、
四条大橋を渡り、南座を見ながら階段を下りて、四条駅へ。
そんな生活を四年ほど送った。
確か大学に入学した年の途中まで、京阪は地上を鴨川沿いに走っていたはずだ。
最後に古都を訪れたのは、もう10年以上も前になる。
格闘技通信で仕事を始めて2年、1997年に七帝柔道の取材で、武徳殿を訪れた。
あのときは、中心街に寄ることなく帰京したように記憶している。
だから、四条通りを歩くのは、17年ぶりになる。
学生の頃、自分は神戸の実家から大学へ通っており、バイトも地元だった。
(とっても懐かしい)長い休みは、
京都へ行くことなく阪神間の建築現場と夜のバイトを往復していた。
ゼミ関係の飲み会こそ、京都で行われたものの、
仲が良くなる友人も自然と、阪急で西からやってきて、西へ戻る連中ばかり。
尼崎、西宮、神戸の人間が多くなり、
そんな彼らとの集まりは、自然と梅田界隈になっていった。
(自分と同じモータースポーツ好きの友人が高槻に住んでおり、車を使って登校した日の
帰りなど、彼を途中で下ろすために、国道171号を車で走ることもままあった。京都取材
の夜、吉鷹さんを訪ねるため立ち寄った高槻駅からジムまでの道で、171号をホンの少し
だけドライブしてもらった際も、なんともいえない感情に支配されてしまった)
大学に入った直後に、左院にあるバイクの教習所に通ったのが関の山。
自分と京都の関係は、
キャンバス以外はこの300メートルほどの移動が殆どを占めていたといってもいい。
自分と京都は、言いうなればそれだけの付き合い。
だから、関西を離れて17年、神戸はもちろん大阪には何度となく足を運んだのに
古都を訪れた回数は、クリチーバに行った回数よりも少なかった。
そして、突然、わき起こったまさかの感情。
ノスタルジック。まさに郷愁の念というやつ、年を喰ったものだと思う。
むしょうに京都の街を歩き、母校の様子を眺めに行きたくなる衝動を抑え、
自分は左院、寺町界隈、二条、修学院と足早に回り続けた。
伏見にも、山科にも、桂にも、宇治にも、八幡にも足を運びたかったが、
たった一日、いや夕刻から夜にかけて回ることは土台、無理な話だった。
二条も修学院も、初めて訪れた。
なのに懐かしい。
変わらぬ街並み。
生まれ故郷の神戸――、実家の周辺が震災後、
新しい街に生まれ変わらないといけなかったのとは対照的に、
京都の街では、その空気間からして変化を感じなかった。
だからこそ、これまで経験したことのないノスタルジーな気分を呼んだのだろう。
そんな変わらぬ京都、しかし、取材は自分が過ごした時代とは
劇的に変化した――、ある事情が対象だった。
といっても、何も難しいことじゃない
可能な限り格闘技のジムを訪ね歩くという体力勝負的な取材だ。
「東京の大学に行ったら、シュートボクシングかシューティングやろうや」。
友人の陳端衛やケンゴ・ワタナベ(陳君は華僑で、ケンゴ・ワタナベは生粋の日本人)と
言い合っていたものだった。
ちなみにその後の会話は
「オレはシュートボクシングやな。やっぱシーザーやろ? あいつ、ホンマ者やで」
「寝技があるほうが、すごうないか?」
「阿呆、そんなもん、喧嘩で関節技とかあるかっ!」
「そうやな、やっぱシーザーやな」
なんて、会話が何度となく繰り返されていた。
ちなみにSB派で、「やっぱシーザーや」と結論つけていたのが、自分。
関節技を否定したのが、自称・極真魂のケンゴ・ワタナベだった。
今も、自分は殴ってダメージがある人間を頭から落とす行為が、
路上では一番強いと思っている。
ただし、当時はそんな奇跡的な技の連係が、
1週間ほどのトレーニングで可能になると思っていた。
バブル経済全盛、自分も友人たちも日本は永久に繁栄し続けるという
無敵感を体中に漲らせていた時代だ。
その後、自分たち3人は誰一人も東京の大学に進学することなく、
最後の無敵時代、バブル崩壊前に格闘技を行う者もいなかった。
格闘技は東京でやるもの――、それが自分たちの感覚だった。
だから、格闘技ができる環境というものを調べることなく、
第二次UWFブームの真っ只中で、
自分は中学?高校と慣れ親しんだバスケットボールを趣味程度に続けていた。
OB会やクラブチーム、顔見知りの社会人のチームの練習に時折参加させてもらう、
そんな体の動かし方しかしていなかった。
当時の京都で総合の練習ができたとは思わない。
もちろん、ブラジリアン柔術もない。
サンボもなかったと思う。
柔道で寝技を学ぶという、そんな考えに行き着く可能性は0パーセントだった。
京都でも、神戸でもボクシングとカラテ以外に、
何か格闘技ができたという記憶もない。
K-1もUFCも始まる前のこと。
今、その京都に回りきれないほど、格闘技のジムがある。
空気感が変わらない街に、当然のようにジムがある。
成蹊館、ピュアブレッド京都からは複数のプロファイターが育っている。
これは京都に限った話でないはず。
日本全国で、17年前とは違う、格闘技と関わる生活を送っている人々がいる。
17年前、自分は関西を離れ、名古屋へ居を移した。
そこには、既にキックもサンボも学べる環境があった。
種はまかれていないかもしれない、しかし、芽が出る土壌があった。
そして今、名古屋は首都圏につぐ、格闘文化を誇る都市になっている。
名古屋での生活は3年弱、人生を左右する出会いもあった街を出ることにした。
既にK-1人気は絶大で、UFCが始まった翌月、自分は会社を辞した。
タイ、欧州、モロッコ、北米、南米、再びタイへ戻り、帰国後、東京に住み着いた。
3年ぶりに訪れたアムステルダム、オランダは相変わらずダークな格闘大国だった。
LAでは、ホイスやヒクソン、マチャド兄弟の下に、既に紫帯を巻いた米国人がいた。
サクラメント――、ケン・シャムロックがデビュー前のフランクとスパーをし、
昨年、MMAデビューを果たしたライアンは、リングの回りではしゃぎまわっていた。
サンパウロ。
グレイシー・サンパウロの責任者ハウフは、奥方の体調が悪いとのことで
リオに戻っていた。代理を任されたハイアンは、なぜか不在だった。
ベーリンギ柔術では、ヒクソンの一番弟子マルセーロ・ベーリンギが指導をしていた。
リオデジャネイロ――、ショッピングセンターのなかで柔術の指導、
多分にバーリトゥードを考慮したギありのクラスが行われていたのを見た。
都内にはブラジリアン柔術は当然として、修斗のオフィシャル・ジムもなかった。
TKがRINGSに入門した翌年だ。
パンクラス、2年目。選手のケガが目立っていた。
慧舟會は、東京本部がまだなかった。
今、首都圏下にはどれだけの格闘技ジムがあるだろうか?
当時のリオのように、至るところにアカデミーがある大都会だ。
京都でジム巡りをした前日、
御所の目の前にある京都KBSホールで、POWER GATEという
格闘技の大会が開催された。
パウンド無し、クローズドガード禁止、膠着厳禁。
六角形リングを用いて、北沢タウンホールより確実に広く、
新宿FACEより天井の高い会場は、ほぼ満員の観客を集めていた。
POWER GATEは大阪、京都、神戸で20度近い、大会を開催している。
ルールやレギュレーション、試合のクオリティについて
いわゆる格闘コミュニティー内で議論が起こる(=話題になる)大会だ。
地元関西勢や山陰、東海地方から参加したファイターたち。
京都で格闘技大会を見る――、その瞬間には
全くノスタルジックな想いは湧き上がっていなかった。
桜田さんが初めて、大阪でアマ修斗を開いてから10年、
今も現在進行形で、格闘技は普及を続けている。
須田匡昇、三島☆ド根性ノ助、レッドスレイヤー・ガイは、
関西在住ファイターの先駆け達は、みなジムで指導もしている。
京都でなくても、名古屋でもなくて、
多くの地域で、少し足を伸ばせば、格闘技が学べる土壌が日本に育った。
そんな土壌を大切にしたい。してほしい。
大切にする――という気持ちを、誰もが持ち続ける必要がある。
大切にするには、世界を、膨張した格闘技界の現状知る必要があると思う。
誰もが知ることが、
一部の事情通の既得権益のようになっている海外への門戸を開放することになり、
結果、海外を身近なものにするはずだ。
と同時に、国内の大きな目標も絶対的に不可欠。
そして、その大きな存在が、ある意味、国内の格闘技界の舵取りになる。
格闘技に直接関わる人の生活に関わってくる。
いや、大会云々でない、メディアに扱われる大会が、
格闘技界の未来に大きな影響を及ぼすのだ。
いつの間にか、自分らの世代は、この業界の古株になりつつある。
古株になった、だからこそ、この国の格闘技を正しく導き、幕引きとしていきたい。
古株が生き残るために、土壌を汚染してはならない。
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